会話補助、コミュニケーション補助、意思伝達装置のことや、リハビリに関することをお伝えします。
「満月をきれいと僕は言えるぞ GO! GO!意志伝達大作戦」を出版して下さった三五館社長の星山さんです。
震災のこと、かっこちゃんのことを書いて下さいました。
もし山元さんの日々の暮らしが「山元加津子劇場」というものだとしたら、それはきっと笑って泣いて感心して、世の中に良い風を送る装置の働きをしていくことになったでしょう。ところが、宮ぷーが登場してからというもの、ガラっと様相が変わってきたように思います。たやすく良風を受け浴びるといった、そんなヤワなものではなくなったのです。語れば長くなるので機会を改めたいと思いますが、宮ぷーとかっこちゃんのドラマは、ちょうど万華鏡のように、観るひと一人ひとりにその人なりの人生観や死生観を問いかける不思議を秘めている気がします。
だから私自身がいま自分の存在のはかなさを前にして、メルマガで宮ぷーとかっこちゃんの関わりの記述に出会うことを望んでいるのは、生きている役割を追い求めているからなのだと思います。
大震災で亡くなった幾万の方々は、確かに亡くなったのですが、その方々がみんなでそろって百年後の未来の行く末をにらみ見ているような気がしてなりません。どんな郷土にするのか、どんな世の中に(お前は)しようとするのかと。今生きている私たちには及びもつかないぐらい真剣に、死したがゆえに未来への役割を荷なっているように思えてならないのです。
さらに言えば、暴れん坊に仕立て上げられた哀しき原発だって、百年後の人間社会の在りようをにらみ見ていると思います。
そうして考えていくと、今生きている私は、犠牲になった方々や原発の意思をまっとうに汲み取って、百年後の良い未来づくりのために、彼らに負けない行動をとらないといけないはずです。なのに、ぐるぐるしていて、まったく……。
自分の足元に本当のことのすべての真理があるとは、よく言われる考え方です。
宮ぷーとかっこちゃんの日々の出来事には、人間らしさの「かたち」が、確かにいつもいつもあります。だから余震の中で思い返したのでしょうか。
山元さんの不思議の山に、また入っていくときが来たのかなと思っています。私の足元である出版で、未来づくりの役割の一端を果たさねばいけないときです。なのにまだ、言葉が発せられないのです。
震災で犠牲になった方々は、死んではいない。私たち一人ひとりの本物度を見ているのだという意思が伝わる、それがわかります。
星山 佳須也
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